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甘々、デレデレ、女の子。
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 今日は、朝とも昼とも言われぬ時間に起き、いつもの通り、呆けた頭を抱えながら、タバコを吸っている内にふと小林秀雄について書きたくなった。もちろん私は、小林の著作を全部読んでいるわけではないし、思想についても不勉強である。さすれば、私が今から書くことは、小林についての漠とした印象であり、そこに核心に迫る鋭い考察や、新たな意見など到底見出すことなど不可能である。私が書くのは、小林というより、私の周辺の小林ともいうべきものである。

と、書いてみたものの、別に今日は難しいことではありません。第一、そんなこと出来ませんし。

大学に小林秀雄の研究をしている人がいるんですが、なんというか、意味あるのかなと思ってしまいます。
別に小林秀雄の思想なんぞ研究に値しないと言ってるわけはなく、ただ、そこに何らかの普遍性を獲得できるのか疑問なだけです。

僕自身、結局、小林秀雄は小林秀雄であって、小林秀雄は小林秀雄であったからこそ、小林秀雄なんだと思うわけです。

この感覚は、僕だけのものなのかなぁ。。。

小林の文章を読むと、例えば、『モオツァルト』にしたって、『ドストエスフキイの生活』にしたって、「小林はこういうふうに考えるのか」としか思わないわけです。それが正しいとか、間違ってるとか、なるほどとか、いや、馬鹿げているとかそういう感情が全く生まれてこないわけです。

こういう風に書くと、小林の文章には魅力がないように伝わってしまいますが、僕が言いたいのは、そういうことではなく、もはや、良いとか悪いとかの次元を超越して、ただそこに力が宿っているということです。

小林は、ただ一人で、芸術に対峙し、その作品にしか意識を傾けなかった。自身と作品が抜き差しならない距離で向かい合い、両者の間に生まれる緊張こそが批評の醍醐味だと考えた。だから、結局のところ、小林にとって、読者なんか二の次だったわけです。この点が小林秀雄の凄みです。

そんな小林の前では、どれだけ正しい意見であっても、やっかみにしかならないと僕は思うんです。これ、すごくおかしな話ですけど。

歴史を振り返れば、過去の哲学者や思想家たち同様に、ひたすら我が道を行き、考えに考え連ねてきたはずですが、なぜ、小林だけ贔屓してしまうかというと、それは、小林の文章が説得的でなく、溢れ出るレトリックは一見難解だが、その動機には、子供が何か楽しいことを話すときのような無邪気を感じてしまうからだと思います。その際、当然として、排他的であるとも言えます。

だから、研究は出来るんでしょうけど、意味あるのかなと。どちらかというと、小林秀雄はそっとしてやればいいのに、という僕の希望がそう言わせてるのかもしれませんが。

にしても、白州信哉は、大変だったろうな。おじいちゃん家が、白州家と小林家なんて。

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