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甘々、デレデレ、女の子。
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僕の連続更新も七日目に突入しました。

当初は、せっかくの休みだし、しばらく更新してなかったから少し頑張るかという程度で書き始めたんですが、三日目ぐらいから意識し始め、どうせここまで書いたんだから、ゴールデン・ウィークは毎日更新してやるかと思い、なんとか今日までこぎ着けたという感じです。

今日は、森鴎外の『高瀬舟』に触れてから、夏コミに向けて執筆中の作品の概要をさらりと紹介しておきたいと思います。もしかしたら、変更するかもしれないんですけど。

『高瀬舟』は、一般に「安楽死」について取り上げた作品だと紹介されますが、実は、「安楽死」は作品の中のメルクマールでしかなく、その主題は、人の意識というものです。

庄兵衛は、どのような環境でも生きていこうとする喜助を「足ることを知る」人間だと表現するわけですが、これはどうもしっくりきません。「足ることを知る」というより、足りているのか、足りないのか、そういうことを考えもしない人間だと感じます。もちろん、「知っている」ことも能力ですから、端からそういうものを持ち合わせていない無能力者と定義してよいでしょう。そう考えると、弟を救えなかった喜助が、庄兵衛に未来の展望を話す際の不謹慎な無邪気さもうなずけます。

鴎外は、12歳で医学部に入り、国費留学までしているインテリですから、おそらくこうした喜助のような無意識に憧れがあったんではないでしょうか。自分はどうしたって、身の振り方や、将来のこと、あらゆることを意識せざれるをえない。この性質から逃れることは絶対に出来ない。鴎外は始終これを嫌悪していのかもしれない。

その憧れの裏返しが、鴎外自身のよくわからなさを作り出しているように思います。

ここからは、僕の作品についてですが、このように意識をしてしまう人間が、無意識に回帰することは絶対に不可能で、ならそうした人間が、どのように生きていけばいいのかということは重大な問題です。実は、今作では割と自分のことを取り上げていますが、おそらく、現代人の多くも同じような悩みを持っているんではないかと思います。

冬コミで発表した前作と同様に、今作でも「閉じられた場」を表現してます。タイトルは関連しないものをつけるつもりですが、『ある限定された空間の中で』の連作と捉えてもらって結構です。内容と文体は、だいぶ違うんですが。

明日から、また多忙な日々が続きます。本当にうんざりしますが、受け入れるしかないんでしょうね。
ということで、明日からは、また更新が滞ろうと思います。申し訳ないんですが。

その輝ける七日間の疾走は、大沈黙の予兆です。

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